年金改革のための資料

 

—カリフォルニア州の「ハムとタマゴ」計画—

泉 留維

 国民年金や厚生年金のずさんな管理運用、負担の不公平感などによる年金保険料の不払い、そして政府財政の逼迫が、将来に向けての年金に対して大いなる不信感を作りだしている。近々、大幅な年金政策の転換を迫られるであろうが、その際、年金行政のコスト削減、資産の差し押さえなどを含む強制徴収や税金による補填、給付額の減額程度で問題の根本的な解決につながるのであろうか。本稿では、年金改革の資料として、主として1930年代にカリフォルニア州で議論となった“ham and eggs”計画について紹介していく。

 1930年代のアリカのカリフォルニア州は、今とは大きく異なり、退職者が多く住む場所の一つであった。そして、この時代は、1935年に社会保障法が成立したばかりで、雇用主が年金資金を提供することは非常にまれであり、やっと公務員や鉄道職員、大学教員などから徐々に始まりつつある状態であった。このような状況の中で、1930年代後半にそれまでの年金制度とは異なる思想を持った仕組みが提案され、法案化の寸前までいっていったのである。それが今回紹介する“ham and eggs”計画である。

 独特の年金制度を大々的に提案したのは、ラジオのプロモーターであったアレンウィリスとアレンローレンスという兄弟である。ラジオは、1930年代においては最先端の電子機器であり、情報伝達手段であった。現在に当てはめるとインターネットのようなものである。カリフォルニア州では、1936年の時点で全世帯の70%が保有、さらに保有世帯が急速に増えていた。このラジオというディアによって、この制度を州民へ広報する有効な手段となり、最終的には法案化のための住民投票にまで持ち込むことができたといっても過言ではない。

 アレン兄弟が提案した制度とは、失業中の50歳以上の人々に対して、政府が、毎週各々が一ドルと額面価値が等しい30枚の証書を配布するというものである。その証書は、貨幣のように購買力を持っている。ただ証書は、毎週その保有者は2セントの収入印紙を貼付することが求められるのである。そして一年後には、印紙売上である一枚当たり1.04ドル(償還基金と管理費用)を用いて額面価値で政府により償還される。アレン兄弟は、カリフォルニアの住民にこの政策に親しみを持ってもらうために、最初は「毎週火曜日に30ドルを!」といっていたスローガンを「みなさん毎朝“ハムとタマゴ(Ham and Eggs)”を食べましょう」と変更し、「ハムとタマゴ」計画と名付けた。

 最初にこの政策案を導き出したアレン兄弟ではなく、アレン兄弟と同じラジオ局のパーソナリティであったノーブルであった。ノーブルは、フィッシャーのStamp Scripを読み、年金基金の新たな構築の仕方を思いついたのであった。ただフィッシャー自身は、後年、ルーズベルト大統領に対して「ハムとタマゴ」計画を認めないように進言している。彼の案は、50歳以上の失業者に対して毎月曜日の朝に25ドル相当の証書を配布するものであった。週に25ドルとは、1930年代当時ではフルタイムの工場労働者平均週給よりも高い金額である。この案を実行した場合、一人当たり年間1300ドル(25ドル*52週)、カリフォルニア州の50歳以上の半数が仕事をしていないとすると合計11億ドル、州のGDPの5分の1にものぼる額が支出されることになる。当時、州内では現金通貨は3.5億ドルが流通し、広義の貨幣(現金通貨と要求払預金)は20億ドル流通していたと推計されており、新たに支柱に大量の購買力が注入されることになることがわかる。フィッシャーが反対したのは、彼自身は基礎自治体において補完的かつデフレ脱却のための一時的な政策として提案したのであり、カリフォルニア州という規模での実施は必ず証書の実質価値が下がり、いずれ制度が破綻することになると考えたからである。

 このカリフォルニアでの「ハムとタマゴ」計画は、全米での関心を集めたが、フィッシャーの進言もあり、ルーズベルト大統領はラジオ番組でその計画を批判している。また、州内の銀行業とビジネスの代表者が、1938年9月にスタンプ付きの証書を受け取らないと公表し、評判が良かった「ハムとタマゴ」計画に水を差すことになった。このような反対の動きも盛んであり、また一方ではラジオを中心とした賛同を求める動きも盛んな中で、この計画を法案化するかどうかの住民投票が行われた。この一見奇抜な年金改正案(第25号案)は、1938年11月の住民投票において114万3670票の賛成(総投票数の45%)を得たが、僅差(約25万票)で否決されてしまったのであった。ただこの否決で計画は途絶することなく、若干の変更(3%の印紙税と毎週30ドル相当の配布)を行い、翌39年の投票にもかけられたが否決されている。このカリフォルニアでの取り組みは、他州へも伝播し、実際、オハイオ州では若干変形の案(例えば、60歳以上に毎月50ドル、夫婦の世帯には80ドルの配布)が投票にかけられている。この政策案は、社会信用(social credit)運動と自由経済運動の融合の中で出てきたものであるが、1939年の住民投票での否決以降、第二次世界大戦に突入する中で多くの人の記憶から消えていったのであった。