フィールドトリップ

根室フットパス

「フットパス」とは、本来、イングランドにおいて、レクリエーション等の目的から、土地の所有権とは無関係に人々が「歩く権利(Rights of Way)」を有する道を指す言葉でした。近年、日本では、歩く権利とは関係なく、イングランドのフットパスの一部の機能である「歩きながら地域の特徴や原風景を体感する」という道をフットパスと呼び、北海道などで盛んに市民を中心にして設置する動きが出てきています。その中で、2003年に設置された根室フットパスは、北海道を代表するフットパスの一つと言えるでしょう。根室フットパスは、酪農家集団AB-MOBITという5人からなる酪農家グループが、それぞれの所有する牧場の中に、歩く道を整備することで形成されました。AB-MOBITは、そもそも酪農の暮らしの魅力を都市の消費者と共有し、地域活性化に繋げることを目的として、2001年に結成され、酪農体験をはじめとした活動を進めていた。その一環としてフットパスが設置され、現時点で厚床パス、初田牛パス、別当賀パスの3ルートが、それぞれJRの駅を出発点に、5戸の牧場を繋ぐことを意識して成立しています。広大な「私有」の牧草地と原野を歩くコースは、合計42.5kmにも及び、景観・規模ともに発祥地イギリスのフットパスに近いでしょうか。この根室フットパスで、2010年より、ゼミの夏合宿(ワークショップ)を行い、特に別当賀パスの整備を行っています。詳細については、下記のリンクをご参照ください。
1.2010年のワークショップ
2.2011年のワークショップ
3.北海道新聞根室版の記事(2011年9月1日)
4.根室新聞の記事(2011年9月5日)
5.ニュース専修(学内誌)の記事(工事中)
Kissing Gate

2008年今治市関前岡村島でのゼミ夏合宿

今年でゼミとしては5回目、個人的には7回目の入島です。今年は台風は来ませんでしたが、猛暑で焼け付くような中での開催となりました。

岡村島は、港の付近の中心部には、2つの宿泊所(公営の農村交流センター(素泊まり一泊3000円)と民営のシー・ガル(素泊まり一泊2700円前後))あり、人数も増えたことから、今年は、両施設を借り切りとなりました。狭いながらも人工ビーチが目の前にあるのが売りですが、シャワールームの狭さと冷蔵庫の故障には毎年泣かされます。特に島外の人を呼び込んでの島の活性化をねらうのなら、もう少し今治市が公営の施設に投資をすべきでしょう。この5年間、その痕跡が全くないです(冷蔵庫が故障しても補充されない)。

○廃油石鹸作り(1日目)

使用後の食用油の有効利用の方法はいろいろあり、最近ではBDF化が話題になっていますが、一番、身近なものは石鹸でしょう。ということで、ゼミとしては始めて廃油石鹸作りを実施してみました。入手しやすいオルトケイ酸ソーダをしようしました。一人分の材料は、廃油100グラム、オルトケイ酸ソーダ25グラム、水道水50mlで、ペットボトルの中に入れて混合し、最後は豆腐の空き容器に流し込みました。

単に混合すれば完成すると思っていたのですが、合宿最終日(作成から3日後)、見るも無惨な結果が待っていました。34個作成し、固形化したのはわずかに5個。炎天下で、大人数で作成したため水や油の分量が多少いい加減になったり、混合時間が遵守されていなかったりという不備はあったと思いますが、あまりにも失敗作が多かったです。こういう化学反応で作成されるものは手順を遵守しないといけないですね・・・

○郷土料理作り(2日目)

どんな土地でもその土地ならではの料理があります。岡村島は離島で、平地も少ないことから、海産物を使った郷土料理が多いです。今回は、地元の婦人会の方がいろいろ指導してくれました。作ったのは、「イギス豆腐」「小アジの南蛮漬けサラダ」「ひじきの白和え」「なすのしぎ焼き」「タコの唐揚げ」「赤しそご飯」です。一部の野菜(にんじんなど)と米以外は、島でとれた食材を使用しました。

海草の臭いが鼻につくのか学生には今ひとつ評判が良くないのですが、この島の代表的な料理は「イギス豆腐」でしょう。地元でとれるイギス草をだし汁の中に入れ、大豆粉とともに煮込んでいくと、イギス草は影も形もなくなります。にんじんやエビを入れてバットに入れ冷蔵庫に入れて冷やすと、言葉では表現しにくい独特な食感を持つ「豆腐」になります(写真は冷やす前のもの)。味?臭い?になれるとやみつきになるようで、学生は誰も宿泊所に持って帰りませんでしたが、地元の人は残ったイギス豆腐をきれいに持って帰っていきました。

完成した料理です。普段の料理というよりも、ハレの時の料理なのでしょう(島民の方に聞き忘れましたが・・・)。

○大下島訪問(3日目)

岡村島から船で約20分。大下島に行きました。2年前には10軒ほどのご自宅に訪問して生活調査をしましたが、今年は、灯台守をしていた92歳のお爺さんのお話を聞きに伺いました。旧・関前村は、1890年に岡村と大下村が合併してできた村で、そもそも行政区分は江戸時代にさかのぼっても違うところでした。大下島は、今でも漁業はほとんどしておらず、農業中心の島です(人口は100名強)。なぜ離島にもかかわらず漁業を全くしてこなかったのかはいろいろな説があるそうです(ここでは割愛)。写真は、手前が小大下島(昔は石灰岩の採掘が盛ん)、奧が岡村島です。

岡村島には、小さなJAのスーパーしかないため、食料品は基本的には四国の今治市中心部から買い付けてくることになります。人口が多い頃は、ほぼ毎日、専用船で買い付けが行われていましたが、今は週に2回程度となっています。専用船が到着すると港近くのお店に島内から多くの人が集まってきます。ほとんどが70歳以上なので、個人で船を乗り継いで今治市中心部に行くのは骨が折れることであり、専用船は生命線とも言える存在です。

○島民の方とのワークショップ(3日目)

島民や関前支所の方が8名ほど参加していただいてワークショップを実施しました。島民の方からは島の問題点や不満、学生からは自分なら島をこのようにできる、もしくはこのようにしたいなどのアイデアを出すなどの形で進めました。他所者中心の場なので、島民の方も気軽に問題点を出すことができたようで、けっこう盛り上がりました。高齢社会の問題点は当然のこととして、地域特有の問題としては、「たぬき」の異常発生(たぬきの食害などが深刻)と今年11月に開通する橋についてがあがりました。

後者の問題ですが、1998年、広島側の大崎下島と陸続きになり、計3つの離島がつながりました。そして、2008年11月に豊島大橋が完成すると岡村島は本州の呉市と陸続きになります(橋の詳細については広島県道路公社のHPを参照)。離島振興法(いろいろ問題点のある法律ですが)の対象から外れるといった財政上の問題もさることながら、24時間いつでも誰でも集落に入ってくることができるのは、島民に大きな不安を与えているようです。橋にビデオカメラを設置したいと市役所にお願いしたようですが、広島側が造った橋であることで今治市は対応してくれず、これといった対策が打てずに11月が来ることになりそうです。離島が陸続くになることでのメリット・デメリットがいろいろあげられるでしょうが、岡村島はその問題にまさに直面しています。

離島が「離島」ではなくなる

 毎年、ゼミの合宿を行っている愛媛県今治市の離島・岡村島が、2008年11月に「離島」ではなくなってしまう(2008年のゼミ合宿の様子はここをクリック)。岡村島は、2005年に今治市と対等合併するまでは、関前村の中心となる島であった。旧関前村は、岡村、大下、小大下の三島からなり、1890年に岡村と大下村が合併してできた村である。江戸時代は、少し意外なことに、対岸の今治藩ではなく、松山藩の領地であった。ちなみに小大下島は、近世までは無人の島で、岡村と大下村の両村入会の地であった(江戸時代から入会紛争は多発していた模様、明治時代以降は石灰岩の採掘が盛んとなる)。
 瀬戸内海の島の多くは明治期からミカン栽培が盛んになり、もれなく関前地域でも1900年前後から盛んになっている。一時期はミカン御殿が建つほどの所得があったが、1970年代に入るとミカンの価格が暴落し、その後、関前地域の人口も激減していく(下記写真参照、戦後は一貫して人口は減少していたが、ゆるやかであった)。2008年3月末現在(住民基本台帳人口)で、岡村が491人、大下が121人、小大下が43人となっており、戦後直後と比較して5分の1程度となっている。
 このような岡村島は、1995年に岡村大橋と平羅橋、1998年には中の瀬戸大橋が完成して、広島県の大崎下島と陸続きになっている。これらの橋の事業は広島県の事業として行われ、広域農道と位置づけられている。大崎下島の住民が、自分のミカン畑(「大長みかん」というちょっとしたブランドみかんを産出)に船ではなく車で行くことができるようにするというのが建設目的である。表向きは、岡村島の利害と関係なく、広島側の島と陸続きになっている。
 この架橋は、全体構想として「本州 - 下蒲刈島 - 上蒲刈島 - 豊島 - 大崎下島 - 平羅島 - 中ノ島 - 岡村島 - 大崎上島」と位置づけられているものの一部である(岡村島だけが愛媛県)。この全体構想の中で、岡村島と大崎上島の架橋建設は全く具体化しておらず、現在、「上蒲刈島 - 豊島」の架橋建設が進んでいて、その他の架橋はすべて終わっている。そして、この架橋が2008年11月に完成し、岡村島は本州と陸続きになり、離島ではなくなってしまうのである。
 愛媛県が策定した離島振興法に基づく実施計画(平成15年度~平成24年度の10ケ年間計画)では、広島側と陸続きになることにより、観光客の呼び込みが容易になり、UJIターンのハードルも下がると位置づけている。しかし、一部の島民の話を聞いたに過ぎないが、現実には陸続きになることの不安(治安の悪化など)の方が大きくまさっており、また観光客を呼び込むためのハード(91年に作られ、ゼミ合宿で使用している公設の宿泊施設も整備が不十分)とソフト(島のどのような資源をアピールするのかという認識が共有されていない)は整っておらず、産業的にUJIターンも見込みがたっているとは思えない。岡村島の島民にとって陸続きになることは、今のところメリットがほとんどないと言っても良いだろう。
 例えば、もし橋の下に水道管を敷設できれば、島にとっては大きなメリットとなる。現在、岡村島は海水淡水化プラント(1997年完成)があるため水不足の懸念は起きていないが、そのプラントも耐用年数が迫っており(財政的に新規更新は難しそう)、農業用水の確保も考えると、近々、新たな水源が必要となる。ただ、広島県の事業だったこともあり、そもそも橋の下に水道管を敷設することは想定されていなかったため、重量的に敷設が難しいのが現実のようで、島民は非常に残念がっている。
 離島が「離島」でなくなることは、岡村島にとっては生活面でも観光面でも今のところメリットがあまり見いだせない。もう静かな「離島」を売りにすることもできない。厳しく書けば、行政に頼らず、島民自らが協調して、新しい行動を起こし、メリットを作り出すべきなのであろうが、良くも悪くも地域の凝集点であった役場が消え、若者がほとんどいない中(2005年の高齢化率は54.7%(国勢調査))で、多くの過疎高齢地域と同じく、地域機能の現状維持を図るのがせいぜいとなっている。
 当たり前のように言われていることだが、地域機能が極端に減少する前に、地域住民が地域資源(注記参照)を見直して、外部の理屈から始まった架橋による本州との接続を受け身にならず、積極的にプラスに働かせることが、岡村島と周辺地域の持続可能性を決めて行くであろう。

注記:地域資源として、例えばハードとして周辺の島にはない人工海水浴場、公設の宿泊施設(30名規模)、立派な小中学校施設、安価に入居できる介護施設などがあり、島民のたすけあい活動やお祭りといった共同体機能も十分に残っている。隣接する島もやっているような地元のみかんや海産物を都市部に売り込んだりする資源利用以外にもっと着目すべき。

伊東市の温泉財産区

2007年に実施した財産区悉皆調査の結果によれば、2007年3月末時点で、鉱泉地を財産として保有・管理している財産区は、全国に18あった。うち5財産区が設置されているのが静岡県伊東市(人口約7.5万人、面積約124km2)である。伊東市は、主な産業は観光業(温泉と海水浴)と漁業であり、同じく観光業が中心の熱海から電車で約30分ほどで伊東駅に到着する。詳細な伊東市の財産区の温泉資源管理については、廣川氏の「静岡県伊東市の温泉資源管理」『Local Commons』第5号、を参照していただきたい。ここでは、現地に訪れた感想を簡単に紹介する。
 伊東駅を降りると、ロータリーの前で各旅館・ホテルの10人近くのお出迎えが待ちかまえていた。小ぎれいな身なりに旗をもっているが、新幹線の駅がある近隣の温泉地、熱海と比べると駅前はこぢんまりしているので、観光地に来た、という雰囲気はあまりない。駅前から、数分歩くと、早速、共同浴場がある。商店街の入り口付近で、珍しく地下にある(写真最上部、2008年1月撮影、クリックすれば大きくなります)。ここは、湯川財産区の下部組織・湯川共同浴場組合が運営するものだ(上記の数字には含まれず)。12時頃、降りていくと、番台をつとめるおばさんが掃除をしていた。駅前にあるため、区民もさることながら、観光客も多いそうで、けっこうにぎわっているよ、と自慢げに話してくれた。残念なことに営業時間は2時からであったので、浴場の中央に位置する湯船を拝んでおしまいであった。
 そもそも、伊東市の財産区は明治時代に設置されたものである。伊東市の前身、伊東村と小室村は1889年に旧村が合併してできた村で、その際、旧村財産を新村財産にせず、旧村単位で保有・管理するために財産区が設置されている。現在、伊東市には15の区が存在し、うち10区に財産区が存在している。湯川財産区は財産区直営で温泉事業をしていないが、直営しているのは、松原、岡、鎌田、玖須美、新井財産区となる。
 鎌田財産区の温泉以外はざっと見て回ったが、基本的に財産区が運営する温泉は、区民の憩いの場と言える。そのため、温泉で大きな利益を上げようとする意図はあまり見られない。旅館経営をしていた区民から寄付された土地に新設された和田湯会館(写真中部、2008年1月撮影、クリックすれば大きくなります)は、玖須美財産区が運営するもので、利用料金は、区民は大人70円、70歳以上高齢者30円、子供(小学生以下)無料と非常に廉価となっており、区外民でも大人300円、子供100円となっている。建物を一見すると観光客向けの施設にも見えるが、実際には公民館的機能も担っている区民向けの施設である。昨今は若者の利用が減りつつあるという話も聞かれたが、老若男女が適当な時間に集い、会話を交わすのである。私が入った新井の湯(写真最下部、2008年6月撮影、クリックすれば大きくなります)では、魚市場が道を挟んで反対側にあることから、漁師関係者の利用が盛んである。漁師の人たちは、それぞれ、ほぼ決まった時間に日々、入浴し、その後、親しい人たちと食事などに出かけるそうだ。
 伊東の温泉財産区では、2つのことが気になった。1つ目は、財産区内での温泉運営の位置づけである。下部組織が運営している湯川財産区も含め、財産区は、鉱泉地以外にも多くの財産を保有している。宅地であったり、山林や畑、公衆用道路などである。ある財産区をのぞき、それらの財産収入がかなりの規模になっているのだ。大きいところだと、平成18年度の歳入が約6000万円、運営基金が数億円にも上っている。すなわち、温泉事業は先述の通り、収益事業ではなく、ほかの資産収益で運営される地域の共益事業ということである(実際に、松原をのぞき温泉事業単独では赤字)。そういう意味では、温泉事業が肌ふれあうつながりから、地域の求心力を作り出すためのものと見なせる。
 2つ目は、区民対象である財産区の共同浴場が、すべて区外民にも開放されているところだ。温泉地にある共同浴場は、区民以外を排除する傾向があると思われるが、伊東市の場合はそのような傾向は見られない。外湯文化がほとんどない伊東地区において、なぜオープンな共同浴場が存在しているのかは気になるところだ。地域の求心力を作り出すためのものと書いてみたが、それだと区外民を排除するクローズドな運営をとってもいいのだが、そうしていないのは、歴史的な浴場の設置経緯をまずひもとかなければわからないであろう。

湯川第一共同浴場
新和田湯会館
新井の湯

足尾銅山と世界遺産

もうかれこれ5年目になりましたが、5月中旬、ゼミ生(2年生のみ)を引き連れて、渡良瀬遊水地と足尾巡り、植林準備のボランティア(足尾に緑を育てる会主催)をしました。昨年と比べて大きな変化があったのは、足尾銅山を世界遺産(適用種別:産業遺産・文化的景観)として登録する活動が本格的に始まったことでしょうか。2007年9月26日に日光市と栃木県が、文化庁に対して、「世界遺産暫定一覧表追加記載提案書」を提出しました。提案書を見てみると、提出時点では、足尾銅山に関係する建造物などはほとんど法的な保護の対象になっておらず、悪く言えば放置されている状態だったことが伺えます(ほんの一部ですが、登録有形文化財(建造物)、市指定史跡や建造物はあります)。やっと、世界遺産登録運動の流れの中で、2008年3月、国の史跡(足尾銅山跡、通洞坑、宇都野火薬庫跡)に指定されました。
徐々に保全活動が広がっていくことは重要なのですが、現実には、一部の関連の建造物の傷みは激しく、近々に何らかの手を打つべき状態でしょうか。たとえば、古河の私有地内にある本山製錬所(写真参照、2008年5月撮影、クリックすれば大きくなります)は、毎年、見る度に損傷が激しくなっているように思えます。私企業にとって、負の遺産は、積極的な保全対象にはならないのでしょうが、観光地化した通洞坑等だけではなく、精錬所や選鉱所も朽ち果てるがままにせず対応するのが、本当の社会貢献活動であり、厳しく言えば企業の存在をかけた義務行為でしょう。

本山精錬所

山梨県の財産区

 ほぼ一年がかりで、ローカル・コモンズの一形態である財産区の悉皆調査を実施していますが、平成の大合併の際、新設された財産区の過半は山梨県にあることがわかりました。そして、その大部分が恩賜県有財産(恩賜林)保護組合が、合併に伴い財産区化したものです。なぜ、財産区化したのかは、アンケート調査ではわからないので、10月、現地で聞き取り調査を実施しました。その結果は、また別の機会のふれるとして、その調査の過程で、恩賜林以外で財産区化したところも訪問しました。
 その中の一つが、旧明野村および旧須玉町にある浅尾原財産区です。徳川時代、朝神村と穂足村の住民の入会地でしたが、明治に入り、官有地に編入されてしまいました。しかし、両村の住民は、国へ払下げを請願し、1886(明治19)年に入会地の払下げが許可されました。買収面積は358ha、金額は約344円、当時の朝神村の歳入3年分にもあたる額です。この周辺で入会地の払い下げを実施したところは、詳細に調べてはいないですがどうもあまりないようです。
 平成の大合併以前は、土地が町村をまたいでいたので、一部事務組合がその所有・管理を行っていましたが、北杜市発足に伴い、一部事務組合でいることができなくなり、仕方なく財産区に変更したそうです。この「仕方なく」がポイントになるのですが・・・
 現在、財産区には、2人の専従職員がおり、独自に事務所も構えています。その事務所の写真を見てもらうとわかるように、非常に立派な建物です。フラワーセンター用地売却収益で建設したそうです。財産区の意志決定は、組合の時と同じく役員会が行い、役員は朝神地区から7人、穂足地区から7人が選ばれます。組合員の資格は世帯単位で、新住民は組合員には原則なれないなど、いわゆる入会集団として運営されているようです。
 キャンプ場の運営から山林パトロールの実施まで、しっかりと活動している入会集団でした。財産区の新設といっても、組合でいれないためという理由に過ぎず、いわゆる明治や昭和の大合併時の新設とはかなり違う様相です。

浅尾原財産区会館

北京調査など

 8月、時間銀行(最近は愛心銀行とも呼ぶ)の現状を調べるために、ほぼ10年ぶりぐらいに北京に滞在しました。まだ詳細はつかめていないですが、私が5年ほど前に広州の時間銀行を訪問したときとは違い、社区(日本の自治会と基礎自治体を足して2で割ったような機関)が主催しているものが増えているようです。ただ、どちらかというと南で盛んなようで、北京では数団体しか今のところ確認できていません。
調査の詳細・結果については、もうすこし調査が進んでからまとめようと思っています。
 ちょうど調査に行く直前、北京はオリンピック一年前の行事を盛大に天安門広場でしたそうです。オリンピックに絡み、様々な報道で北京の大気汚染の問題が指摘されていますが、体感的には汚染の度合いは現状ではけっこう深刻でしょうか。写真は、故宮博物院のすぐ北側にある景山公園の丘から撮ったものです。景山公園は、明の最後の皇帝、崇禎帝が李自成の軍に攻められ、首吊り自殺をした木があることで有名。ちょうど、中国では、明の時代の小説やドラマが流行っているせいか、暑い日中でもけっこうな賑わいでした。ただ、とてもよい天気にもかかわらず、上空はスモッグが立ちこめ、見通しが余りよくありませんでした。日差しの中、歩いていると目も少し痛くなるので、光化学スモッグも発生しているかもしれません。北京在住者はとりあえずは大丈夫(慣れか?)のようですが、一時滞在者にとっては結構つらい状況です。
 あと、オリンピック絡みで町中の看板で目立ったのが、「南水北調」関係のものです。南方地域(主に長江)の水を慢性的に水不足である北方地域に送る大規模な輸水路工事で、東線、中央線、西線の3ルートが作られる予定。今でも水不足の北京市には、2008年4月までに中央線第一期工事を完成させ、送水が始まるそうです。その宣伝と節水を呼びかける看板があちこちにありました。来年の北京は、いろいろドラマがありそうですね。
景山公園から故宮を眺める

07年今治市関前岡村島でのゼミ夏合宿

今年でゼミとしては4回目、個人的には6回目の入島です。今年は運が悪く、東京から夜行バスで今治まで移動する日に台風が本州を直撃することになり、当初の予定より一日ずらしての入島となりました。

台風が通り過ぎて、今治市はそこそこ良い天気になりました。岡村島に入る前、今治市の四国側にある第58番札所の仙遊寺に、コーディネーターの島崎さんと一緒に訪れました。ここの宿坊は、セミナー室もあり、一泊6,000円なので、静かなゼミ合宿をするのには良いかもしれません。

今年から今治・岡村間の民間のフェリーが廃止され、市営だけになったそうです。そのため、かなり狭いフェリーしか走っていません。ゼミ生30名が乗ると、けっこう混雑してしまいました。

台風の影響で一日、合宿の日が減ったため、今年はフィールドワークはほとんど中止。唯一実施したのが、岡村島の観音崎(ちょっと島から突き出ている)での植生調査です。今治から講師をお呼びして、観音崎にある救世観音堂周辺を調べました。島の人の話によると、昔(数十年前)は、クロマツが生い茂った松林だったそうですが、今はほとんど松はなく、生態的には次のステップに移行してるようです。山火事や台風でごっそり今の広葉樹が枯れれば、また松林に戻るかもしれませんが。

宿泊した農村交流センターと海水浴場。台風が通り過ぎた後だったので、かなりのゴミが漂着していました。ただ、このあたりの島では唯一、整備された海水浴場なので、昼間はけっこう人が多かったです。

基本は完全自炊ですが、2日目のお昼は、地元の人がタコを釣って、タコの唐揚げをもってきてくれました。イカと違って、タコはさすがに地元の人にさばいてもらわないと・・・・今年度はあまり調査ができませんでしたが、来年度は岡村島の生活実態調査など実施して、離島の将来像をもっと探っていきたいと思います。

足尾合宿(2007年度)

毎年5月、新しくゼミに入った学生を引き連れて、足尾銅山煙害・鉱毒事件に関係する場所に行っています。水俣病もしかりですが、生態系の回復をするためには、気の遠くなるような時間と莫大な費用をかける必要があります。それでも完全には戻らず、また人々の記憶から公害のことが薄れるほうが早いのが気にかかるところです。公害は、過去の日本や途上国の問題ではなく、今の日本でも起きている問題です。(写真は大畑沢緑の砂防ゾーンの頂上付近から足尾精錬所を臨んだもの)

 

足尾銅山(2007年度)

2007年も5月の第三土曜日・日曜日に新ゼミ生12名と3年生のゼミ生の一部(2名)を連れて、足尾銅山煙害・鉱毒事件に関係した場所を訪れ、NPO足尾に緑を育てる会の作業デーに参加しました。

渡良瀬遊水地内の旧谷中村跡(史跡保全ゾーン)にある谷中村村民の延命院共同墓地。1970年代、貯水池造成のため破壊されそうになったが、市民などによる反対運動で撤回された。

足尾精錬所入り口。入り口近くの古河橋も含め世界遺産に登録する運動が起こっています。2007年9月末をめどに日光市は文化庁に世界遺産暫定リスト掲載の提案書を提出するそうです。

大畑沢の作業場頂上から見た足尾ダム。渡良瀬川・仁田元川・久蔵川の3川合流点に建設されたもので、1954年に第一期のダムが完成しています。計画貯砂量500万m3のかなり大きな砂防ダムですが、見たところかなり埋まってしまっています。写真左手には、鉱山の廃石などを埋めた堆積場があります。

ちなみに大畑沢の作業場頂上付近の地表は写真の通りです。国道交通省が整備したとは言っても、土壌を完全に入れ替えるわけにも行かないので、まだまだ昔の名残があります。

足尾に緑を育てる会が管理する作業場は、昨年までは大畑沢でしたが今年からは、足尾ダムより上流の桐久保沢と松木沢(少し下流)に変わりました(詳細はこちら)。作業場から松木沢を見ると、両岸の山とも岩がむき出しになり、見るに堪えない光景が目に入ってきます。生態系の回復はまだまだこれからです。

簀子橋堆積場(対象:沈殿物、面積:218,000m2、堤長:337m、 高さ:97m)。1960年完成。足尾では唯一現役稼働中の堆積場。地元のある人の話では、このダムがあふれないようにするために汚水(処理水)を流している小川(渋川)にはほとんど生物が生息していないという。

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