フィールドトリップ

御谷騒動と広町緑地(2007年4月)

 

桜が散り間際、鎌倉市に赴き、里道の散策をしました。鎌倉市は、言わずもがなですが、「古都保存法」を誕生させた市でもあり、環境保全を取り組む先駆的な自治体ですが、そもそもは住民の反対運動から政策につながっていくというパターンが観察されます。

財団法人鎌倉風致保存会の事務所建物。ハーフティンバーと呼ばれる独特な妻壁を持つ旧安保小児科医院の建物。

御谷(おやつ)騒動のモニュメント。鶴岡八幡宮の裏山である御谷(御谷戸が縮まったらしい)の宅地開発に反対する運動で、大佛次郎などが運動の母体として作ったのが財団法人鎌倉風致保存会(1964年設立)である。1966年、日本のナショナル・トラスト第1号と言われる御谷山林(1.5ha)を買収し、現在のような光景を保っています。フェンスで覆われて、クローズド・スペースになっているのが若干気になるところです。

広町緑地には、江ノ電七里ヶ浜駅から歩いて入りました。駅からの案内図がないためかなり迷って正規の入り口ではないと思われる日蓮宗霊光寺の裏山からでした。写真は七里ヶ浜小学校近くにある出入り口付近の尾根から撮ったもの。緑地のすぐそばまで住宅地がびっしり詰まっています。

とても手入れがされた里道(自称「もののふの道」)です。

七里ヶ浜出入り口付近に過かがられていた緑地内の地図。残念なことに支柱から落ちていました・・・

里道を歩いて里山を降りると、谷戸が広がっています。耕作放棄されたかなり年月がたっているのか、水路はほとんど埋まり湿地のようになっていました。ただ、里道の方はしっかり整備され、木の橋も架けられています。

耕作放棄された水田も市の支援を受けて復興しようとしているようです。やはり元の自然を取り戻すためには、長年関わってきたヒトの営みの部分も取り戻して行かなくてはいけません。イングランドでは、すでに羊がいなくなったコモンに羊の放牧をわざわざ行って、風景(ランドスケープ)を保全しようとしています。

鎌倉の里道めぐり

 桜が散るか散らないかの日本人が美を強く感じる時期に、鎌倉の里道を歩きに行きました。里道とは「道路法による道路に認定されていない道路すなわち認定外道路のうち、公図上赤い帯状の線で表示されているもの」を指します。地区住民の日常生活に密着した道路として利用されてきた歴史があり、その敷地は、現在では市町村の財産となっています。鎌倉市の里道は総延長600キロにものぼるとかのぼらないとか言われはっきりはしませんが、相当の長さを持っているのは事実です。
 まず鎌倉市の里道の実態を聞くために鎌倉市役所道水路管理課に赴きましたが、全域の里道については質問してもまとめた資料などはないと言われたため、すぐ近くにある横浜地方法務局鎌倉出張所に赴き、今回特に注目し、歩き回ろうと考えていた広町緑地付近(鎌倉市腰塚・津:鎌倉広町の森)の旧公図を閲覧しました。写真(性格上解像度を落としています)を見ていただければわかるように、旧公図は非常に鮮やかで、赤線・青線が一目瞭然となっています。広町緑地には里道が縦横に走っていたのがよくわかります。ちなみにこの周辺は、鎌倉時代には京都から鎌倉に入る大手(玄関)だったそうです。

 そもそも広町緑地(約60ha)は、都市近郊の大規模な手つかずな私有地であったため、1973年、事業三社によって大規模開発(主に宅造)案が発表されて以来、常に開発圧にさらされてきた場所でした。地元住民は、数少なくなってしまった市内の残された緑地を保全するために反対運動を継続し、1984年には周辺8自治体により「鎌倉の自然を守る連合会」が結成されています。この団体などを中心に粘り強く運動を続けた結果、2000年には鎌倉市議会で広町を都市林として保全する「広町の緑地保全に関する決議」が採択され、2002年10月には事業三社は開発を中止し、用地(36.8ha)を市に売却することで鎌倉市と基本合意するに至っています。2003年12月、総額113億円(神奈川県20億円、国20億円、鎌倉市緑地保全基金35億円、鎌倉市38億円)で買収、晴れて公有地となり長期的な保全ができる体制になりました。事業三社以外が保有していた残りの土地もほぼ2006年2月までに買収が終わり、現在では都市林公園を目指しているそうです。
 里道の話に戻りますが、緑地保存運動に取り組んでいた「鎌倉・広町の森を愛する会」の代表(当時)の池田尚弘さんは、赤道は入会地と同様、地域住民共有の財産であり、住宅開発をすることで、その共有財産を業者が勝手に侵害することは許されないと考えたそうです(詳細については『季刊まちづくり』の該当記事をご覧ください)。そこで、ただ反対するだけではなく、この赤道を修復し、再活用することによって、忘れられていた共有性を復活する活動を展開しました。そのおかげもあって、今では下記の写真のような立派な里道を私たちが享受できるようになっています。この広町緑地の場合、身延町のように里道によって地域外からの開発を妨げることができたと結論を下せるかは難しいところですが、少なくとも里道整備が地元住民によって再び行われ始めることで里山自体(「おらが山」)と保全の重要性の再認識につながっていったことは間違いないでしょう。
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広町緑地の里道の詳細な光景についてはこちらをご覧ください。

日々茶寮「連」

 4月上旬、鎌倉に里道調査で行きました。その内容については別途書きますが、調査終了後、私も大変お世話になっている『コモンズの経済学』(学陽書房)をかかれた多辺田政弘先生の娘さんご夫婦がお店を2月に出されたということで、早速、よってみることに。あいにく、夕方から春の嵐でしたが、8時過ぎにはほぼ満席状態でした。全15席のこぢんまりとしたお店で、外装も内装もシンプルで好印象な作りになっています。料理の方は、昼も夜も3つのコースから選ぶ形になっていて、旬なものをいかしながら、お刺身や焼き物が出てくるなど比較的標準的な日本料理かと思います。
 一部の器は、多辺田先生が焼かれたものが使われるなど、いろいろな思い入れが伝わるお店です。
☆日々茶寮「連」(詳細は写真をクリックしてください)
湘南モノレール・湘南深沢駅徒歩7分
tel:0467-32-6730

伊万里はちがめプラン再訪

 佐賀県伊万里市にあるNPO法人伊万里はちがめプランに、およそ1年ぶりに訪れました。かれこれ4回以上行っていますが、毎回、様々な動きがあって感心させられて帰京しています。今のところ、一年前と比べて、一般家庭の参加はほぼ変化せず220世帯、事業所は微増の64事業所で、それらから出る生ごみを日々回収し、堆肥化しています。

 2006年の夏頃は、台風で堆肥化ハウスの屋根が吹っ飛んだりして事業を継続できるかどうかの瀬戸際まで行ってしまいましたが、なんとかその後盛り返し、堆肥事業で三人、NPOの事務で一人、農産物直売所の事務で一人の計5人を雇用できるまでに回復しました。そのような危機的状況があったことも影響したのか、生ごみを提供している一般家庭の有志が集まり、伊万里市長宛に要望書を提出しました。その模様は地元紙に写真入りで紹介されています。要望書の内容は、(1)生ごみの分別・回収活動の普及・啓発の推進、(2)学校給食などの公共施設から出される生ごみの同法人への委託などです。今月中には市長が回答すると言うことなので、回答が楽しみです。
 3月23日に再放送が終わってしまいましたが、NHKの「ビジネス未来人」で伊万里はちがめプランの取り組みが紹介されました。3月25日の時点ではまだ写真が入っていませんでしたが、放映内容がけっこう詳しくHPに載っています。

今回の伊万里はちがめプランの訪問の写真はこちらをご覧下さい。

伊万里はちがめプラン再訪(2007年3月)

佐賀県伊万里市にあるNPO法人伊万里はちがめプランは、家庭や飲食店などから出る生ごみを資源化し、産物である堆肥を地元の農家に使用してもらうといった地域循環を構築しようとしているNPOです。毎年、このNPOが発行している地域通貨(「ハッチー」)の実態調査や生ゴミ資源化事業のヒアリングをするために現地に赴いています。そろそろちゃんと文章化しないと・・・

この軽トラで毎日、市中心部の一般家庭約220軒、事業者約64社の生ゴミを3人で回収して回っています。

一般家庭はグループを組んで「生ゴミステーション」を設置します。そこには、生ゴミを入れるポリバケツや廃油を入れるタンクがおいてあります。生ゴミは台所で出たら、すぐにステーションのバケツに皆さん入れに行くそうです。

NPOが経営する農産物直売所「風道」。朝7時30分頃から夕方18時頃までオープン(木曜日定休日)。一日2〜3万円の売り上げがあるそうですが、はちがめプランの堆肥の売り上げはけっこうあるとのこと。おいてある野菜は、ほぼすべてはちがめプランの堆肥を使用したものです。

野菜などのおいている商品にはすべてバーコード付きのラベルがついています。これは一枚2円で購入ができます。

伊万里はちがめプランの堆肥化ハウス内の攪拌機。このレーンに投入された生ゴミを攪拌して発酵させていきます。2006年9月に上陸した台風13号の影響で、このハウスの屋根が吹っ飛ばされてしまいました。その修繕費用は、生ゴミを提供している市民や事業所からの寄付、また施設隣に教室を持つ佐賀大学が負担して、11月下旬には復旧しました。

生ゴミだけだと水分が多いため、水分調整剤として写真左にあるおがくずを入れています。ちなみに、伊万里市は伊万里牛が特産ですが、畜糞は入れていないそうです。

はちがめプランの堆肥化ハウスへの案内板。地元の小学生が総合学習の一環でハウスに行っており、彼らが作成した案内板です。

伊万里市内で咲き誇る菜の花。はちがめプランは、休耕田などを利用して菜の花の栽培も推進しています。いわゆる「菜の花プロジェクト」です。収穫した菜の花は搾油・販売され、一方で家庭などから出る植物性の廃油を回収・改質してBDFを製造するものです。

伊万里市中心部から車で1時間強ほどのところにある玄海原子力発電所。4基のあるうちの3号機でプルサーマル計画の実施が検討されています。写真ではわかりにくいですが、原発の周辺には、計16基の風力発電所の風車がまわっており、ちょっと異様な光景です。

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山梨県身延町での現地調査風景(2007年2月)

日蓮宗の久遠寺があることで有名な山梨県南巨摩郡身延町で現在係争中の廃棄物処分場建設と入会権及び赤線・青線に関する問題についての調査のため現地におもむきました。ここでは、北川集落の入会地に一般・産業廃棄物管理型最終処分場を民間業者が建設しようとしたことから、予定地内の共有地の権者の一部である住民などが2001年頃から反対運動を起こしました。山梨県は2006年2月に廃棄物処理法上での設置認可をだす一方で、森林法(林地開発)と砂防法(指定地内行為許可)に関する申請は不許可にしています。また、共有地の使用、青線・赤線の付け替えなど様々な問題が出ており、現在、住民が県に対して、主に安全性に基づく人格権を侵害することを理由に許可の取り消しを求めて提訴しています(他裁判も有り)。

当該集落の入口にでかでかと掲げられている建設推進派の看板。今回、町内を車で走っていても推進派の看板はここでしか見なかった。

建設予定地内の青線にある砂防ダム。すでに土砂で埋まっており、その機能は失われていた。

業者が、予定地内の測量のために打った測量杭があちこちにある。ちなみに表面はほとんど礫で、非常にもろい。

青線の小さな滝。滝の横の岩石には断層が走っているのがよくわかる。

周辺の山は、30年ほど前に造林された痕跡はある。ただ、枝打ちや間伐はそれほど行われず、現在はほぼ放棄された状態である。そのため、竹の浸食も激しい。ちなみに、北川区の共有地は林業公社と分収林契約が交わされ、一方で住民の立ち入りが制限されている。

処分場がもし建設されたら、最終的には写真の電柱ほどの高さまで廃棄物が積み上げられることになる。

旧下部町(現身延町)のあちこちに掲げられている建設反対の看板。のぼり旗もあり、様々な種類がある。特にのぼり旗は、一本1,000円で購入するものであり、それが数多くあるということはそれだけ反対者が多い証拠とも言える。2006年7月20日開かれた反対派集会(提訴報告集会)には900名もの人々が集まった。

山口県上関町での現地調査風景①(2007年2月)

中国電力(株)は、現在、山口県熊毛郡上関町長島四代地区にて原子力発電所の建設を進めています。そもそも中国電力がここに建設計画を立てていることがわかったのは、1982年6月末のこと。この計画が発覚してから、周辺で操業している対岸約4キロにある祝島(いわいじま)の漁民や、予定地内に共有地がある地元の四代地区の住民などが強硬に反対をしていますが、工事(詳細調査)は着々と進んでいます。

原子力発電所建設予定地がある長島は、本州と橋(上関大橋)がかかっておりバスでも行けますが、反対派の漁民が多くいる祝島には船でしか行けません。柳井港と祝島間は一日2往復半はしっています。1時間10分ほどで到着し、運賃は1,530円。

集落の裏山から見た光景。祝島はそのほとんどが切り立った崖と岩山からなっていて、平地が極めて少ないです。そのため島内では一ヶ所に集まって住んでいます。主な産業は、農業(主にびわやミカン、干し大根)と漁業(主にタイやヤズ(小ぶりのハマチ)、タコ、あとヒジキ)。その昔は、この狭い場所に4,000人近い人が住んでいましたが、現在は560名あまりです。それでも離島の一集落としては、現在ではかなり大きな方です。

島中で見られるヒジキを天日干しする光景。祝島の雑木からできたマキで、鉄の大釜にヒジキを入れて炊いてから干します。

干してから天気が良ければ数日で出荷できる状態になるそうです。詳細については、元・祝島漁業HPをご覧下さい。

祝島の約9割の人が対岸の原子力発電所の建設に反対しているそうです。元・祝島漁業の事務所には写真のような看板や「ふる里三題」とついた反対の短歌が掲げられています。

祝島の方のご協力で、建設予定地付近を船で案内してもらいました。写真真ん中付近の水色の色が付いた当たりが、取水口が取り付けられる予定です(護岸から深層取水)。猛烈な勢いで取水されるので、海底の地形が大きく変わるなどのいろいろな変化が出ると推定されます。ちなみに取水口付近はボーリングをしてせいか、かなり岩が崩れてきていました。

建設予定地を正面から望む。現在、船がいるところは、このまま建設が進めば周辺の山々を崩した土砂で埋め立てられることになります。今は、建設に入る前の詳細調査を実施している最中です。調査にしてはかなり大がかりです・・・

予定地の地層を調べるために、あちこちでボーリングが行われています。また、その周辺は、どこかで雇われた漁船が監視役で船を停泊させています。2006年には台風13号でボーリング台船が流される事件が起きています。

地元の漁師のお宅でご相伴に預かる。ヤズの刺身、あら煮、あとなんとかエビの刺身は絶品でした。ただ、おしむらくは宿でおいしい食事を頂いた直後だったので、余り食べられなかった・・・

山口県上関町での現地調査風景②(2007年2月)

海から建設予定地を見た翌日、今度は室津港から自動車で移動し、その後、里道を歩いて周辺を散策しました。

今回、海からの予定地観察や祝島から室津港まで運んでくれた荷物運搬用の船。抗議行動の際はとても活躍したそうです。

160ヘクタールにのぼる用地のかなりの部分は中国電力に買収されています。ただ、建設敷地予定地内でも共有地や神社地など裁判の係争となっている土地があり、完全に目処がついていない今、まだ海の埋立は実施されていません。用地はかなり買収されていても、未買収の土地があることなどから、まだ赤線・青線は健在であり、警備員がしっかり付き添ってくれながら、赤線は当然歩いていけます。無断立ち入りではありません!

狭い里道を重機が走り抜けるため、当然、周辺の木々に傷が付きます。そもそも里道は人や農業資材を運ぶ道なので、車が走ることは想定されていません。傷ついた木々には、中国電力がムシロの包帯を巻いてくれています。

用地内の多くの木々は落葉樹で、その昔は薪炭利用されていたそうです。写真の木も立派に萌芽更新しています。

カクレミノ(Dendropanax trifidus:ウコギ科カクレミノ属)。樹液はウルシーオール二量体を含むそうで、漆のような使い方はできないかと地元では考えられているとか。また、地面には、ハゼの実を多く見つけることができました。伝統的なろうそくをつくる活動も近くであるそうです。

数十年前までは、四代地区の住民が徒歩で山を越え、段々畑や棚田を作り、農業をしていました。今は、その名残として、石段があるばかりです。

用地内に張り巡らせられつつある運搬用モノレール。詳細調査のためだけにこのようなおおがかりな施設が作られています。

田ノ浦で着々と詳細調査が進む。

建設予定地内を交差する赤線と青線。まだ用途廃止していないはずなのに、歩こうとすると厳しく注意されます。

予定地のすぐ裏手に立地する「いこいの家」。反対派住民の共有地に地元材で立てられたログハウスです。地元住民、特に対岸の祝島の方々がどれほど反対してきたのか、また現状については、例えば「上関原発反対運動:速報版」をご覧下さい。あと、上関原子力発電所の歴史をまとめたものとしては、朝日新聞山口支局編(2001)『国策の行方:上関原発計画の20年』をお勧めします。

鹿児島県瀬戸内町での現地調査風景(1)(2006年12月)

奄美大島島の南端のマチ、瀬戸内町で入会権の調査におもむきました。ここでは、網野子集落の入会地に一般廃棄物処理場建設をしようとしたため反対派住民が裁判を起こし、現在、最高裁判所で係争中です。

奄美で「自然の権利」訴訟など様々な自然環境保全活動に関わられ、今回の調査対象である瀬戸内洋の裁判にも深く関われた薗さん(環境ネットワーク奄美代表)の御自宅。すばらしい庭園でした。薗さん、私の大学の大先輩だったこともわかりビックリしました。

薗さんの庭先にある神様の玄関(入口)。グスク。人間の玄関ではないですが、きれいに保っておけば、特段、歩いても問題はないそうです。

住用川水系の上流部にある砂防ダム(98年3月竣工)。こんな立派な砂防ダムですが、場所によってはすぐに砂で埋まってしまい機能しなくなります。この写真のダムのほんの100メートルほど上流に埋まってしまった砂防ダムがありました。これでは魚は遡上できませんね。

名瀬名物?巨大俵型おにぎり。入ったお店では、三角おにぎりはなくすべて巨大俵型。また具も変わっていて、写真のおにぎりはランチョンミート、おにぎりの周りにふりかけがまぶしてありました。結構、おいしかったです。

住用川河口部に拡がるマングローブ林。満潮時はカヌーでマングローブ林の間を縫って観光ができるようです。

マングローブ林の内部。ちょうど干潮時だったためすこし歩いてみました。

網野子集落の入会地。一般廃棄物処理場を町はここに建設しようとしました。仮処分の申立が、地裁名瀬支部では認容されたのですが、異議申立で町の方が一旦勝ってしまい、立ち木の伐採が進み、整地もされ、ブルーシートも入っています。立ち木伐採前は、クロウサギの糞が見られるなど自然豊かだったそうです。今は仮処分が決定したので工事自体は止まっています。最高裁でどうなるやら・・・

処理場建設予定地の谷を流れている嘉徳川。この嘉徳川の河口部に拡がる嘉徳集落がまっさきに建設反対の声を上げました。

嘉徳集落の美しい浜は、大波に砂を取られ、一部、無惨な姿をさらしています。原因ははっきりしないようですが、沖での大規模な海砂採取が影響を及ぼしていると現地の人は考えています。ちなみにこの集落、元ちとせの出身集落です。

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鹿児島県瀬戸内町での現地調査風景(2)(2006年12月)

奄美大島島の南端のマチ、瀬戸内町で入会権の調査の合間に、瀬戸内町中心部である古仁屋から船で対岸の島、加計呂麻島に行きました。相撲が大変盛んな島で、集落毎に土俵があり、男性は皆、相撲を取るそうです。

古仁屋の港から出港。対岸の生間(いけんま)に向かう。約20分の船旅でした(260円)。

生間港の入口にある松。島の人は、この松を見て、島に帰ってきたと実感するそうです。干潮時は、島から歩いて松の麓まで行けるそうです。

瀬戸内町加計呂麻島の安脚場砲台跡。雑木等が繁茂してわかりにくいですが、米軍の激しい攻撃を受けなかったせいか、コンクリート製の防備所があったりして当時の面影を残していました。景色は太平洋側が見渡せて絶景です。

佐知克集落製糖工場「西田精糖工場」。ちょうど、正月前のサトウキビの収穫シーズンで、製糖工場もフル稼働でした。写真はサトウキビの山。

収穫されたサトウキビは、まず機械を使って搾り取られます。絞りかすは工場外に山積みにして、燃料に使ったりします。

絞り汁は大きな釜で煮立てられていきます。三段階の工程を経て飴上の黒糖になります。黒糖の固まりを現地では「すたんかぶ」と言うそうです。

小さい集落の小さい工場です。けど、こういう地域分散型がほんとうは一番環境的にも経済的にも持続的なのでしょう。

於斉集落にある立派ながじゅまるの木です。手前の木にはぶら下がりの縄があり、写真には写っていないですが右手にはハンモックがつり下げられていました。ただ、奥には集落のお墓があったりと神聖な場所のようです。

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