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韃靼旅行記(7):豊満ダム 2002-03-28

韃靼旅行記(7):豊満ダム 2002-03-28 初出『人間の経済』35号 ゲゼル研究会

泉留維(いずみるい)

 依蘭で感じた悠久の歴史を噛み締めながら、博物館や新華書店などにより、ハルピンそして長春と車と列車で移動して、吉林省第二の都市、1954年に省都が長春に移されるまでは吉林省人民政府があった吉林に向かった。中国広しといえども、省名を都市名にしているのはここだけである。

 吉林市は、もともと満族の祖先が住んでいたところであり、満州語で「川沿いの町」を意味するジーリンウーラとこの周辺を呼んでいて、ここから吉林(中国語ではジーリンと発音する)という地名が誕生した。市の中心部には、松花江がS字形で蛇行しており、わたしが宿泊したホテルからは松花江を一望でき、朝には川面に霧がかかっていて美しい光景であった。

 吉林では、郊外にある松花湖に向かった。吉林市の中心部から20数キロ、松花江の上流、満州国時代に豊満ダムの建設によってできた湖面面積550平方キロメートルもある人工湖であり、夏は遊覧船が出るなどの有名な観光地にもなっている。中国でダムといえば、多くの人が、真っ先に長江中流域にできる三峡ダム(総出力1820万 kW)を思い浮かべるであろうが、この豊満ダムも様々な意味で三峡ダムに匹敵するほどの話題性を秘めているのである。

 松花湖にある豊満ダム発電所は基本的に軍事施設扱いであるが、今は一般に開放されており、門の脇にある守衛室でチケットを購入すると外国人でもガイド付きで見学(一人10元)できる。ガイドを車に乗せ、まず行ったのが発電所のコントロールルームがある施設である。一階には、松花湖の模型や発電用の立軸フランシス水車の見本が置いてあった。そして、三階にあるコントロールルームなどをガラス越しに見た後、施設の外に出て、ダムの下に向かった。施設の裏に回って驚いたのが、数多くの巨大な変圧器の一群である。松花江まで直線で200メートルぐらい距離であろうか、上には複雑な電線の網、地面には巨大な変圧器があり、電線網のトンネルをくぐりながら川辺まで行った。川辺まで行くと、全長1,080メートル、高さ91.7メートルにもなるコンクリート壁が出迎えてくれた。なかなか勇壮な景色である。このようなダムが、満州国時代に造られたのは驚きである。

 ここで豊満ダムの歴史を見てみよう。このダムと付随する発電所は、繰り返すことになるが1937年に満州国によって建設が始められている。当時においては、東アジア最大規模であり、6年後の1942年にダムの貯水が始められた。1942年11月8日の大阪毎日新聞に、この豊満ダムについての記事が載っている。その記事について、少し見てみよう。

大東亜戦争下、満洲が悠々世界に誇る科学の凱歌−三千年の歴史を秘めて滔々と流れる大松花江を堰止めて世界有数の大発電所を形成する豊満ダムは起工以来満五年、一億八千万円の巨費と一千二百万人の延労力を費して今ようやく完成を見んとしている。

中略>

この月末から結氷期になるが来春解氷とともにこの大堰堤に堰止められた水は刻々と増水し五百五十平方キロ、琵琶湖の八割の面積を持つ人造湖水では世界最大の貯水池が出現する。このダムを狭む上流下流の水位差によって明春四月ごろより万キロワットの大発電が開始されるが、このダム工事の完成は満支の河川の流量の季節的変化の甚だしいこと、勾配が緩やかであることなどから水力電気には不適格とされていた定評を完全に覆し鴨緑江の水豊発電所とあわせて世界有数の水力電気国として満洲が大東亜戦争下に高らかに凱歌をあげるわけである。しかもなお豊満ダムの完成はその電力による満洲国産業開発の原動力を確保するのみならず中略>この豊満ダムの完成は明年秋の予定で満洲国産業開発上大なる進歩をもたらすものである。

このように、当時においても、非常に話題性のある大規模公共事業であった。ただし、この大事業の裏では、多くの労働者が亡くなっていることを私たちは忘れてはいけない。戦前の日本国内においては、豊満発電所(約40万kW)ほどの規模の出力を持つ水力発電所はなく、宇治発電所(2万5千kW)や猪苗代第一発電所(3万5千kW)のような小規模ものがほとんどであった。満州国において、このような大規模発電所をつくる本当の意図はいったい何だったのであろうか。

 満州国崩壊後、中国政府が接収し、89%まで完成していた工事を続行した。そして、1960年、第一期工事が終了し、約55万kWの発電所が完全に起動し始めた。実は、この時期、豊満発電所副所長、その後技師長(1955〜66年)を勤めていたのが、現在、全国人民代表大会常務委員会の委員長である李鵬である。豊満発電所は、当時の中国で最新鋭の水力発電所であり、周恩来の養子である李鵬が勤めるほど重要な施設であった。1988年からは、満州国時代の設計にはなかった発電機の設置プロジェクトが始まり、1992年には約72万kW、98年には約125万kWにまで拡大している。松花江には、4つの大規模な水力発電所があり、その中で豊満発電所は、一番歴史の長い発電所である。また、現在、2,000人もの人々が働いていて、発電開始以来、約80億kWhも発電しており、中国東北部の産業発展に大きく貢献している。

 この豊満ダムは、歴史またその発電量で有名なだけでなく、前の五角紙幣(0.5元)の裏を飾っていることでも有名である。日本円でたとえれば、10円玉に刻まれている宇治の平等院のようなレベルであろう。とにかく法定貨幣にも登場するほど有名なダムであるのだ。現在の中国の紙幣(新紙幣)を見てみると、表は毛沢東、裏は国内の旧所名跡(万里の長城や桂林の山水など)になっている。もしかしたら、三峡ダムも近々お目見えするかもしれない。

 豊満ダムを訪れたのは、ほんの1時間強であったが、わたしにとって興味深い訪問になった。厳冬の中、郊外のダムを見学していたのは私たちのグループだけであり、夏になると大変な喧噪なのであろうが、車のエンジンの音が湖面に吸い取られている錯覚を覚えるほど辺りは静かであった。

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韃靼旅行記(6):依蘭にて 2002-02-07

韃靼旅行記(6):依蘭にて 2002-02-07 初出『人間の経済』28号 ゲゼル研究会

泉留維(いずみるい)

 依蘭という町は、ハルピンから車でしか行くことができない。特に今回は、厳冬期であるため、道は凍り、雪が降る可能性もある、少しでも危険を減らすために日本製のジープを借り、地元のドライバーを雇った。幸いなことに、ハルピン郊外から延びる高速公路で依蘭まで行くことができる(90元=約1,400円)ので、一応の除雪はされていて、200キロ以上の道のりであるが、3時間強ぐらいで着くことができた。朝9時頃に出発し、依蘭鎮(市街地)に入ったのが、ちょうど13時過ぎであった。

 清朝の勢いが盛んなころ、三姓(現在の依蘭)は、黒龍江下流域やサハリンに住む広大な諸民族が、清朝へ服属している証としての朝貢を行う場であった。諸民族が清朝へ納めるものは、主に毛皮であり、特にクロテンの毛皮であった。清朝は、貢納者に対して、烏林(うりん)(賞与)として、ハライダなどの官位に応じ、官服一式や穀類酒などを下賜した。朝貢の儀式の様子は、1809年にサハリンの毛皮貢納民と密かに黒龍江を探検した間宮林蔵が、色付きの挿絵を使っていきいきと描いている。余談であるが、依蘭の博物館で、朝貢の図として展示されていたのは、間宮林蔵が著述した『東韃地方紀行』に載っている絵であったのだが、学芸員はこのことを全く知らずに展示に使っていた。ちなみに、間宮林蔵は、このような朝貢を行う場所を「満州仮府」と呼び、彼が訪れた満州仮府は、地図にあるデレンであり、三姓から派遣された清朝の役人がいた。

 朝貢によって得た品々や、仮府での漢人商人との交易で得た中国製品などは、貢納者自身が消費するだけでなく、近隣の人々との交易品となり、さらには日本への輸出品となった。実際、アイヌ経由で江戸時代の「日本」には、彼らが朝貢で得た絹製の衣類や布地が入っており、「山丹服」や「蝦夷錦」などと呼ばれ珍重されたのである。蝦夷錦や山丹服は、幕府への献上品あるいは諸侯への贈答品として松前藩が独占的に扱ったが、商品としても重要で、北前船により日本海沿岸の港町に運ばれ、そこから全国に流布した。蝦夷錦は、袱紗や敷物、袋類、紙入れなどに仕立てられ、また僧侶の袈裟や掛け軸の風帯などとして、武士や寺社、金持ち、文人たちに喜ばれた。これらの軽物は、爛熟してきた江戸時代中後期の文化(化政文化)の中で、人々の自尊心をくすぐる粋な小道具として使われた。

 一方で、日本から樺太アイヌ経由で大陸へいった商品としては、毛皮類、鉄製品(鍋、ヤスリ、ナイフなど)、漆器類、米などが挙げられる。その中でも、毛皮類と鉄製品が重宝され、例えば大きな鉄鍋などは重要な財産とみなされた。先日、国立民族学博物館の特別展(「ラッコとガラス玉」)に行ったのであるが、そこで展示されていた鉄鍋は、非常に立派である上に、最近まで大切に扱われていたことがわかるほどきれいに保存されていた。


江戸幕府は、基本的には鎖国体制であったが、対外貿易を黙認されていた藩が3つあった。それは、琉球王国と交易をした薩摩藩、朝鮮王国と交易した対馬藩、そして北方のアイヌ等と交易した松前藩である。幕府が直轄して交易をしていた長崎を加えて、鎖国体制の四口(よんくち)などと最近は称されているそうだ。3つの藩に対外貿易を認めていたのは、当然ながら、文物の行き来だけを想定しただけでなく、そこから入ってくる対外情報を狙ってのものであろう。北方に関しては、18世紀のロシアの南下政策を素早く察知し、幕府の命令によって蝦夷地探検が活発化して、大石一平、最上徳内、近藤重蔵、松田伝十郎、間宮林蔵などが活躍したのである(裏では、松平定信によって、『海国兵談』を書いた林子平などが弾圧されているが)。

 清朝が衰退し始めた1850年前後からロシアがネルチンスク条約での国境を越えて、黒龍江近辺に再び現れ始めると、ロシア、中国、日本の狭間にいてその立場を有効に活かした先住民たちの北方交易も終焉に向かっていった。そして、地理的に国境を設ける近代国家の登場によって、交易路が遮断されたのが決定的となった(1868年の明治維新と1875年の樺太千島交換条約によって日本への輸出が困難になったことが大きな原因)。同時に、三姓の役割も低下し、今ではどこにでもありそうな地方の一都市になってしまっている。

 話はまた現代に戻る。13時過ぎに依蘭に到着したが、観光用のガイドブックに載っている町でもなく、不幸なことに日曜日であったので役所も閉まっており、まずハルピン市の広報誌では史跡として重点整備される予定になっている「五国城跡」(遼金頃の城址、金軍に捕らえられた北宋第8代皇帝徽宗が幽閉され没した地)という場所を探した。これが見てびっくり。お情け程度の記念碑とモニュントらしきものがあるだけで、昔の名残はどこにもない。これを見て、かなりショックを受け、史跡を探すのではなく、とりあえず書店に入り、地方誌を探す方をまず行うことにした。

 唯一の大通りに面した書店に入ると、幸運なことに依蘭の歴史文化をまとめたシリーズ本があり、またそこの店員さんが、地理に不案内な私たちのためにガイド役をかってくれることになった。その後、ガイドのおかげで順調に、依蘭博物館(未だに外国人料金があって驚いた)や清真寺(中国でのイスラム寺院の一般名称、回族の居住地に多い。寺院の人によれば、黒龍江省で最も古いらしい)などを巡り、最後に松花江と牡丹江が合流する地点を見に行った。

 清朝時代に正確にどの辺りに港があったのかはわからないが、この合流点にある三姓を目指して、周辺の民族は黒龍江本流や松花江を千キロ近くも遡航して来ているのである。清朝に服属している証とは言え、それほど周辺の民族にとって、莫大な富をもたらしていたのであろうか。陸路より安全とは言え、相当な危険を伴ったことであろう。

太陽がほぼ沈みきった灰色の世界の中で、広大な川面を眺めながら、ほんの百数十年前まではあったであろう喧噪を極めた光景を思い浮かべ、依蘭の町を去っていくことにした。ハルピンで見た松花江とはまた違った光景を連想できたことが、日本に帰った今でも鮮明に思い出すことができる。

注1:今回の北方交易に関する記述は、主に下記の文献を参考にした。

海保嶺夫『エゾの歴史:北の人びとと「日本」』講談社 1996年

国立民族学博物館編集『ラッコとガラス玉』財団法人千里文化財団 2001年

注2:写真は、「山丹交易の経路(18世紀後半)」(出所)海保嶺夫[1996:199]より一部追加

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韃靼旅行記(5):炭鉱閉鎖と石炭液化 2002-02-02

韃靼旅行記(5):炭鉱閉鎖と石炭液化 2002-02-02 初出『人間の経済』27号 ゲゼル研究会

泉留維(いずみるい)

 昨年11月29日に、九州最後の炭鉱、池島炭鉱(長崎県外海町)が閉山、42年の歴史に幕を下ろした。この閉山で、かつて国内最大の産炭地だった九州からは炭鉱が姿を消した。そして、この1月30日には、国内最後の炭鉱、太平洋炭砿(北海道釧路市)が閉山し、81年余りの歴史に幕を閉じたのだ。

 この太平洋炭鉱閉山のニュースを、実は、わたしは中国で知った。『中国日報』の短信欄(1月10日付け)に、「日本で最後の炭鉱の生産が終わる」とあったのだ。石炭を大量消費している中国においては、外国の話とはいえ十分ニュース報道する価値があったようである。エネルギー問題が盛んに取り挙げられるわりには、日本では、あまりこの炭鉱閉鎖は話題にのぼっていなかったような気がする。ただ、日本において、昨年、石炭の使用量は増加しているのだ。2001年の当初2ヶ月の輸入統計によれば、昨年同期に比べ全体で17.72%もの増となっている。全輸入量は2,550万トンに達し、原料炭は21%増の1,410万トン、一般炭が12%増の1,070万トン、無煙炭が33%増の62万トンとなっているのである。石炭の重要性は、この石油全盛の時代でも必ずしも減っているわけではない。

日本の石炭輸入量(
2001

1-2
月)

2001.012001.022000.01-022001.01-0201/00
百万トン百万トン百万トン百万トン%
原料炭7.3296.80211.63614.13121.44
一般炭6.0974.6289.53710.72512.46
無煙炭0.3090.3100.4660.61932.66
合計13.73611.74021.63925.47517.72

International Coal Report 522、2001.04.10

 今回、「山丹交易」の一端を見るために、三姓(現在の依蘭)に行ったのだが、ここでは、現在日本の支援を受けて大規模プロジェクトが進んでいるのである。それは、「石炭液化」プロジェクトである。中国は、世界で最大の石炭生産量をほこるが、今後のエネルギー需要の増大に伴い、自国の石油資源の不足が見込まれることから、石炭の液化技術の実用化を重要な課題として掲げているのである(中国は1993年から石油の純輸入国となっている)。「石炭液化」とは、簡単にいえば、固体である石炭を液体燃料に変換し、人造石油をつくる技術のことである。石炭は、石油と同様に炭素と水素の化合物だが、石油に比べて分子量が大きく、水素の割合が少ない。圧力をかけたり触媒を使ったりなどして水素を石炭に添加し、高分子の結合を断ち切り、液化するのである。液化する際に、硫黄分などの有害物質を除去することができ、精製後の硫黄分は石炭の千分の一以下、液化過程での発生量を含めても七分の一程度になるとも言い、クリーンな石炭利用技術として注目されているのである。

 石炭液化のアイデアは、1869年にまでさかのぼるといわれているが、工業化の基礎ができたのは第1次大戦後の1923年であり、ドイツのミュルハイムにあったカイザーウイルヘルム石炭研究所(現マックスプランク石炭研究所)にいたフランツフィッシャーなどによってであった。それから第2次大戦にかけて、石炭は豊富であるが石油に乏しいドイツが、石炭から内燃機関用の液体燃料をつくることに力を入れた。最終的には、約20の工場でガソリンを年間約500万トン生産する規模に達したが、連合軍の爆撃目標となり、工場は壊滅した。ちなみに、2000年8月から、テキサスA&M大学のDr. Anthony Strangesらによって、ドイツと米国を中心とした過去の石炭液化関係の文献や特許をインターネット上に公開する事業が始まっている(http://www.fischer-tropsch.org)。

 話は元に戻るが、昨年、中国の国家発展計画委員会によって作成されたエネルギー第十次五ヵ年計画(最新の計画)には、クリーンコールテクノロジーの開発の項目があり、「先進的なクリーンコールテクノロジーをモデルとして、技術の蓄積と商業化の普及を実施する。プロジェクト前期作業の進め具合と技術、経済の条件に基づき、この期間は陜西省の神東、雲南省の先鋒、黒龍江省の依蘭など石炭液化工場を建設すると同時に」とある。依蘭における石炭液化プロジェクトは、国家プロジェクトに位置づけられ推進されているのである。また、『人民日報』2001年4月16日版には、下記のような記事が載った。

黒龍江省依蘭石炭液化プロジェクトが、中国政府のエネルギー第十次五ヵ年計画に入れられた。依蘭炭は長焔炭である。黒龍江省炭田地質局のデータによると、依蘭炭田の石炭埋蔵量は7.9億トン、うち採掘可能な高級石炭埋蔵量は4.2億トンである。石炭液化のために100年間分を供することができる。中国煤炭科学研究総院およびハルピン燃気化工総公司と日本との間で、1995年から依蘭石炭の液化の研究が始まった。5年間の成果は国家発展計画委員会に評価されており、「十五」計画に入れられた。本プロジェクトは総投資額80.5億元、主に外資導入により手当する。そのため、関係方面は資金調達に積極的に取組んでいる。石炭液化はクリーンコールテクノロジーであるから、環境問題の解決に寄与する。依蘭石炭の液化は、黒龍江省石炭工業が直面する構造問題の調整と失業問題の解決、更に大慶油田の持続可能な発展に資するものとなろう。

依蘭における石炭液化の企業化調査は国際協力事業団(JICA)が行い、経済産業省の外郭団体である新エネルギー産業技術開発機構(NEDO)が技術的な支援および試験をしている。NEDOの報告によれば、1トン/日の液化装置を利用して中国依蘭炭および中国西林硫化鉄を用いて液化試験を実施した結果、液化油の収率は52〜57%に達したそうである。石炭を液化する設備は1950年代から南アフリカで稼働している(石油の輸入が困難であったという特殊事情が影響していると思われる)が、それと比較すれば非常に効率的である。

 依蘭において町の人数人に聞いたが、みんな依蘭炭田の存在については知っており、また石炭ガスが作られ、都市ガスとして配送が始まっていることも知っていたが、石炭液化については何も知らないようであった(聞き方に問題があった可能性も高いが)。まだ地元においては、それほど認知されていないようである。

 これまで中国では、粗放な燃焼を主とする石炭の利用方式により、各地で深刻な酸性雨、粉塵汚染をもたらしてきた。余談ではあるが、中央電視台(日本のNHKのようなもの)の朝のニュースで、天気予報の後に今日の大気汚染度の予報まで出しているのである。石炭が安価である利点などを活かした石炭液化プロジェクトを推進させることで、いままでの汚染が少しでも緩和することを期待したいところである。一方、石炭液化についての技術供与をするぐらいの日本では、主にコスト面の問題から冒頭のように炭鉱がすべて閉山し、さらにエネルギー自給の道を閉ざしたのは、ある意味残念なことである。エネルギー自給は、食糧自給の問題と並んで、単純に経済的コストの面で判断することはできず、真剣に議論すべき課題であろう。

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韃靼旅行記(4):哈爾浜、そして依蘭へ 2002-02-01

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韃靼旅行記(4):哈爾浜、そして依蘭へ 2002-02-01 初出『人間の経済』26号 ゲゼル研究会

泉留維(いずみるい)

 今日はまず長春からハルピン(哈爾浜)へ列車で移動、およそ240キロの道のりである。朝8時過ぎの出発、軟座、日本でいうところのグリーン車に乗り込んだ。ちょうど通路を挟んだ向かいの席に、カップル一組とビジネスマンとおぼしき中年の男性が座っている。ぼんやり見ていると、どちらも頻繁に携帯電話の着信音がなり、せわしなく何か話している。日本みたいなしゃれた着ロではないが、日本にはないすこし変わった感じの着信音だ。林さんに聞くと、中年の男性は、日本との貿易関係の仕事をしているらしい。そのうち、おもむろにカバンから、ソニーのVAIO(カラ付き)が出てきたので、びっくりした。おまけに、彼の向かいに座っていたカップルはIBMのシンクパッドを取り出して、なにやら打ち込んでいる。携帯電話にモバイルパソコンまでもが普通に見られるぐらい経済が発展しているのだ。

 一方で、窓から見える風景もなかなかのものであった。北京から長春への列車は夜行だったので、風景を楽しむことはかなわなかったが、今回は違う。町から出るとすぐに地平線まで見えるほどの平原に出る。冬なのでただ荒野が広がっているように見えるが、実はどこまで行っても果てしなく続く「とうもろこし」畑なのだそうだ。途中数カ所で、「とうもろこし」を貯蔵する倉庫が無数に立ち並んでいた。あと、カラマツと思われる大量の木材があちこちの駅で積まれていた。

 線路沿いには、防風林なのであろうか、ずっとポプラが植林されている。ただ、北海道のように密な防風林ではなく、まばらに近いのでそれほど効果は望めなさそうだ。よく地面を見てみると、ところどころに切り株が残っている。おそらく誰かが燃料として切って持っていってしまったのであろう。

 中華人民共和国が建国されて以来、植林、すなわち緑化は大きな政策目標として掲げられている。建国初期である1952年2月に林墾部長梁希は、演説で、自然災害を防止して被災地方の農業生産力を回復するために緑化が必要であると言っている。そして、改革開放期において、政治的目的もあるが、「全民義務植樹運動」が展開され、毎年植樹する義務を国民に課した。そのためであろうか、統計的には、中国の森林被覆率が大幅に改善している。中国の統計の信憑性や質の問題に目をつむり数字だけ見ていると、1949年では7.9%であったものが、1998年にはなんと16.55%になっているのである。ちなみに、日本は67%であり、世界平均は27%である。内実は国有林を中心に荒れ放題なのであるが、日本は、数字的には緑の大国である。

 後日、吉林省の上層部の人と会う機会があったので色々尋ねたのであるが、吉林省では緑化に関しては、吉林省の東部では「退耕還林」、西部では「退耕還草」をかかげて行っているそうである。簡潔にいえば、まず耕地を減らし、東部では木を植え、西部では草を植える、ということである。これは、中央政府がとる中国全土での水害対策の方針(「封山植樹、退耕還林、退田還湖、平?排洪、以工代賑、移民建鎮、加堰固堤、疎浚河道」)とほぼ同じである。それにしてもこの32字の方針は、非常に画期的だとわたしは思ってしまう。

 昼前にはハルピン駅に到着した。長春よりもかなり北に来たので、さすがに冷たい風が肌を刺して痛い。ハルピン駅に立ったとき、すぐに脳裏に浮かんだのは1909年10月26日に、この駅で暗殺された伊藤博文のことであった。日露戦争が始まった1904年頃には、すでにこのハルピンには1,000人以上の日本人がいたそうである。今でも市街地に出るとロシアと日本の影響が色濃く残った建物を見ることができる。現在、ハルピン市は、中国の最北端に位置する黒龍江省の省都であり、7の行政区と13の県を直轄している。市の面積は5.31万平方キロメートル、総人口は950万、そのうち市区の人口は411万(ちなみに黒龍江省の人口は 3640万人である)である。


荷物をおくとすぐにハルピンの市街地を流れている松花江を見に行った。16時も過ぎれば日が沈んでしまうこともあるが、この松花江は、清朝までの北方交易において非常に重要な位置を占めており、また黒龍江の支流としてオホーツク海に流れ込むため環日本海の環境を考える上でも重要な河であり、是非この目で早く見ておきたかった。松花江は、別名スンガリーともいい、朝鮮国境にあるかの白頭山の頂の天池に源を発しているのである。ちなみに、黒龍江は、アムール川とも言い、北東アジア第1の長流で、全長は4,440km、本流のみで2,824kmもある。主な支流は、アルグン川、ウスリー川、そして松花江(スンガリー川)である。

 市街地を流れているため、ホテルから歩いていけるぐらいの距離に松花江はあった。ただ真冬のため、一面凍っており、子供たちがたこ揚げをしたり、中国ゴマで遊んだりしている。遊園地のようになっているところもあり、氷でできた巨大滑り台が目立つところにあって、犬ぞりや馬車に乗れたり、なんとラクダにも乗れたりするのであった。この日は、偶然、ハルピン市の氷祭りの開始日で、松花江の土手には寒いながらも屋台(当然ながら日本みたいな吹きさらしではなくテントみたいに閉ざされている)が並び、なにかお祭り独特の雰囲気を醸し出している。また、氷の彫刻(人民解放軍が作っているらしい)があちこちにあり、中にはライトが埋め込まれていて、夜になるとさぞ美しいことであろう。

 春夏秋は、この松花江もゆったりと水が流れているのであろうが、今はその面影はどこにもない。一面氷が張り、ここが河であることを感じさせるものは、河をまたいで架かっている鉄路とロープウェイだけだ。明日は、車でさらに下流に行き、清朝時代、異民族統治の最前線であり、満州旗軍が駐屯し、副都統があった三姓(現在の依蘭)に行く。ここでは、またちがった松花江が見られるのであろうか。

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韃靼旅行記(3):東北地方の料理 2002-01-30

韃靼旅行記(3):東北地方の料理 2002-01-30 初出『人間の経済』25号 ゲゼル研究会

泉留維(いずみるい)

 中国といえば、世界に名だたる料理大国である。北京料理、四川料理、上海料理、広東料理といえば、知らぬ人はほとんどいないであろう。ただ、今回訪れた中国東北地方には、何か代名詞がつくような世界的に有名な料理はない。また、料理のほとんどが、醤油ベースで作られており、比較的濃い味が多い。好みもあるだろうが、わたしの口に合う料理がけっこう多かったのはうれしかった。海外で口に合わない料理が毎日出ると、これほど閉口することはないものである。

 長春に入り、早速、その昼から当然ながら東北地方の料理を味わうことになった。昼は、コーディネーターの林さんの元同僚が集まり、同窓会のような食事会になった。中国料理の特徴の1つとなった中央に回転テーブルのついた円卓が、個室の中央におかれている。この時聞いて驚いたのであるが、この回転テーブルは実は日本人が発明し、日本から中国に入ったものであるそうだ。一体こんな便利なものを、どこの誰がいつ発明したのであろうか。

 円卓を囲む場合は、席次がある。おおよそ出入り口に近いほうが下座、遠いほうが上座である。食事を始める前に、どこに誰が座るかでいろいろ相談しているのを見て少し驚いた。特段フォーマルな食事会でもないのだが、席次はかなり重要らしい。そして席に着き、円卓に大皿の料理が順々におかれていくのだが、当然料理にはもれなくアルコールがついてくる。特に東北地方では、白酒が好まれる。白酒とは、一般に穀類を原料とする蒸留酒のことを指す。原料にコーリャンを用いたコーリャン酒が最も多く、東北地方の白酒はほとんどコーリャン酒である。白酒の多くは、アルコール分50%以上の高濃度酒で、60〜65%のものも少なくない。

この白酒をショットグラスのようなグラスで3杯の飲むが、食事会の始まりの儀式である、宴会の主人が曰わった。わたしとしては、白酒のにおいがもともと苦手なのでビールに変えて欲しいところであるが、白酒を飲まないと会が始まらないので、勢いよく3杯飲んだ。お決まりのように一応喝采を浴びた。にしても、林さんの元同僚は昼休み(おそらく)に仕事場を抜けてきているのである。こんなにアルコールを飲んでも良いのだろうか。

 この晩は、林さんの朋友との食事会になった。昼間はホテルの一室であったが、晩は「大酒店」、いわゆる飲んで食べるお店であり、日本の居酒屋みたいなところで食事をした。ここでは、典型的な東北料理がたくさんでてきた。料理名はわからないが、まず、酸っぱい白菜(酸菜)のスープ。白菜を雪の中に寝かして発酵させ、それをベースにしたスープなのだそうだ。あまりに酸っぱいので、お酢のスープかと最初は思った。次に、豚の血の固まり、プヨプヨしていて一見チョコムースのようなものである。ドイツには、ブルートヴルスト(主として豚の血、豚肉、背脂を使うが、血のみで作るものもある)というソーセージがあるが、それとは少し違うふんわりした感じである。まわりから、美味だからと盛んに進められたが、好んで食べるほどおいしいとは思えなかった。あとは、鹿肉や犬肉の料理である、獣のにおいが多少するが、思ったよりも柔らかし食べやすい。この時はなかったが、後日登場した蝉の幼虫のソテーもどきもよく食べるそうだ。栄養価が高いらしい。

 食事の締めにはだいたい点心とデザート(多くはフルーツ)が出てくる。今回の旅行で出てきた点心は、ほとんどが餃子であった。餃子の中身には、先ほど書いた酸っぱい白菜と豚肉が餡になっているものが多かった。これも東北ならではであろう。そして、親友や客人を送り出すときには、なおさら最後に餃子を出すらしい。結婚式でも餃子を出す習慣もあり、餃子は縁起物みたいだ。

 長春を出て、このあとハルピンや吉林などにも行くのだが、どこも醤油ベースの味付けの料理が多く、ニューも似かよっていた。今、東京ではフランスのジビエ料理が流行しつつあるようであるが、東北地方ではあちこちで、野ウサギやキジを路上で売っており、豚肉や牛肉などをはずせばすべてジビエ料理と言えるかもしれない(ジビエ料理なるものを食べたことはないが)。あと路上でよく売っているものとしては、キノコ類が挙げられよう。木耳に始まり、ほんといろんな乾燥キノコが売られている。乾燥松茸もよく売っていた。松茸は、ここでも比較的高いキノコであり、言い値で1斤(500グラム)60元ぐらいであった。それにしても乾燥松茸をどうやって食べるのであろうか。きっと土瓶蒸しにはむいていないだろう。

 東北地方の料理は、たしかに洗練されているとは言えず、味も濃いものが多いが、代表的な料理(北京料理や四川料理など)に比べて、決して見劣りするものではないと思う。おいしい田舎料理といえば雰囲気が伝わるであろうか。もし近くに東北地方の中国料理を出す店があれば、一度は行ってみるのをおすすめする。

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韃靼旅行記(2):偽満州国 2002-01-24

韃靼旅行記(2):偽満州国 2002-01-24 初出『人間の経済』24号 ゲゼル研究会

泉留維(いずみるい)

 早朝7時前に、長春の駅に到着した。列車内はスチーム暖房で非常に暖かいが、外はいかがなものであろうか。シベリアほどではないだろうが、氷点下20度の世界へ突入である。十二分に着込んで、列車を降りた。氷点下2、3度で凍えていたわたしにとっては、そもそも氷点下20度の世界を想像するのは難しかった。「息を吐けばその息が凍り、バナナで釘が打てる」なんてバカな考えは、しっかり裏切られた。

 プラットホームにおりると、顔に冷たい風が打ちつける。ただ、驚くほどのことはなかった。大きな荷物を抱え、多くの人が改札へと向かう。改札の外には、親戚や友人が待ちわびているのだろう。わたしたち3人は、長春のかすかな硫化水素のにおいがする空気をすいながら、ゆっくりと改札に向かった。コーディネーターである林さんの地元は、この長春である。林さんにとっては、3年ぶりの帰郷であり、わたしには見せないが、感慨深いものがあるだろう。

 改札口には、林さんの「朋友」である王さんが出迎えにきてくれていた。なんでも、日本で知り合い、「兄弟」になったそうである。中国の東北部は、非常に友人関係を重要視する。ビジネスも、友人関係を駆使して行うことが多いらしい。この友人関係に、これからいろいろ驚かされるのであるが、この時点では、それほど気にしなかった。王さんの車で、ホテルに行き、荷物をおき、一休み、そして林さんの友人がたくさん集まってくる。みんな一国一城の主である。ネットカフェの経営者もいれば、商社のようなことをしている人もいる。林さんは言う、「中国人はみんな社長になりたがる」、そして「日本人は3人集まれば力を発揮するが、1人だととても弱い。中国人は逆。3人中国人が集まればケンカするだけ」。

 林さんの友人たちと、ホテルのバイキングで朝食。食べているうちに気づいたのであるが、あちこちにクリスマスの装飾がある。サンタが踊り、トナカイが走っている。もう1月に入り、とっくに年が明けている。ただよく考えてみると、中国の正月は旧正月。新正月は、たいして重要ではない。中国は、今ちょうど年末であり、クリスマスの装飾は「年明け」まで残しておくのが普通なのであろう。にしても、日本と同じく、中国人も、にわかクリスチャンになる人が多いのは、微笑ましいし、商魂がある。

 朝食の後、早速、長春の町に出た。長春は、吉林省の省都で、面積は18,881km2、漢族、回族、朝鮮族、壮族など37の民族が住んでおり、総人口は678万、そのうち市区の人口は274万である。

 市街地を車で走っていると、なにか日本の城のような建物が並んでいるのを見つけた。聞けば、満州国時代の建物とのこと。現在は、中国共産党の事務所になっているそうである。ご存じの通り、長春は、満州国の首都であった。当時の建物が多く残っていて、特に満州国の行政や関東軍の建物は、今は、病院になったり、大学になったりしている。その一部を紹介してみよう。

◇満州国務院= 満州国最高行政機関で、日本の国会議事堂を真似て造られた。現在は、医科大学。

◇旧満鉄本部= 現在も鉄道局の事務所となっている。

◇旧関東軍司令部= 旧日本の関東軍司令部があったところ。現在は吉林省共産党委員会の建物となっている。

◇旧憲兵司令部= 現在、吉林省司法省となっている。

◇満州国中央銀行= 現在、中国人民銀行吉林省分行になっている。

 このような満州国時代の建物を横目に、わたしたちは、ラストエンペラー溥儀の王宮「偽皇宮陳列館」に向かった。日本でも、有名であるラストエンペラー愛新覚羅溥儀、清朝の宣統帝として即位したのもつかの間、すぐに辛亥革命(1911年)で清朝は滅亡、その後、日本軍につれられ、1934年に満州国の皇帝となるのである。

 愛新覚羅とは、一風変わった姓である。そもそも彼ら一族は、満州族であり、漢族ではない。この愛新覚羅も、中国人が漢字を当てはめたものである。ツングース語である固有満州語には、ギョロという言葉があり、これは、おなじ血統のことをさす。また、黄金のことをアイシンという。つまり、「黄金の氏族」(アイシンギョロ)と自称していたのが、清朝の王族であった。

 訪れた溥儀の王宮は、現在、「偽皇宮陳列館」となっている。中国では、満州国のことを、「偽」満州国というため、偽皇宮と名付けられている。ちなみに、英語では、“Imperial Museum of the Puppet State Manchuguo”である。

 皇宮といっても非常に簡素である。あの紫禁城の一区画にも及ばないのではないだろうか。門をくぐると、まず江沢民によって書かれた「勿忘九一八」という石碑が目に入る。「九一八」とは、もちろん日本で言うところの柳条湖事件の日である。江沢民は自分の腕に自信があるようで、あちこちに自筆の石碑を建てている。そして、石碑の後ろには、溥儀の執務室兼寝室である建物があり、中は、現在、当時の再現部屋と写真の展示室になっている。溥儀は、日本の傀儡皇帝であることを知りながら、ここでどのような夢を見ていたのであろうか。

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韃靼旅行記(1):出発 2002-01-22

韃靼旅行記(1):出発 2002-01-22 初出『人間の経済』23号 ゲゼル研究会

泉留維(いずみるい)

 毛皮とは、まことに人を魅了するものであるらしい。それを追い求める欲望のため、個人、民族、国家までもが、狂乱した。それは、黄金に魅了され南米大陸をスペイン人が蹂躙したことや、北米大陸におけるゴールドラッシュと肩を並べるぐらいのものである。歴史上、多くの人を魅了したものを3つ挙げるとしたら、黄金、絹、毛皮ではないだろうか。

 雷帝イワン4世の時代の1581年に、西シベリアを征服しロシアによるシベリア併合の端緒をつくり有名であるコサック隊長イェルマークはクロテンの毛皮を求めて、ウラル山脈を越え、シビルハン国を滅ぼした。クロテンの毛皮は、セーブルと呼ばれ、毛皮中の最高級品の一つとして珍重され、その交易ルートはシルクロードに匹敵するほどの通商路であった。そこでは、利権を巡って多くの軍事的衝突や搾取が行われ、また様々な文化が交流しあった。

 今回、このクロテンの交易の1つである「山丹交易」の一端を見るために、中国東北部へと足を運んだ。「山丹交易」とは、18世紀から19世紀にかけての時代に、アムール川(黒龍江)下流域と樺太(サハリン)を中心にした舞台で盛んに行われた交易のことである。実は、この交易は、江戸時代の日本にも大きな影響を及ぼしたのであるが、それは後ほどふれるとしよう。

 「山丹交易」の一端を見るため、と大仰なことを書いたが、実際はもっとお気楽な珍道中であった。毎昼、毎晩、大酒をくらい、翌日寝不足のまま博物館や史跡をまわり、書籍を探し回る、なんともまあ、ある意味では調査とは言い難いものであった。今回の小旅行は、日頃お世話になっているA先生とコーディネーターの林(リン)さんとの三人。旅は、関西空港から始まる。

 7年ぶりに北京の国際空港に夕刻に降り立ったが、当時のいかにも社会主義国の空港、薄暗くて兵士が銃を構えて歩き回っている、とは大きく違っていた。関西空港のように、白い壁面にパイプを組み合わせてできていて、とても近代的だ。降り立つと、なにやら「奥記念」の文字が入ったいろんな宣伝があちこちに見られる。ここで、林さんからミニクイズが出た。「奥」とはなんぞや。中国は、あらゆる外来語を漢字化㣂ので、なかなか想像もつかない。「オーストリアかな」と言ったら、なんのことはない2008年に北京で開催される「オリンピック」の「オ」であった。中国において、外来語に当てる字にはおもしろいものが多い。今回、おもわず手を打ったのは、かのマハトマガンジーであった。「地」に満足すると説いて、ガンジーを「甘地」と。

 空港には、林さんの友人である孫さんが、車で出迎えてくれた。実は、夜行列車で長春に行くことになっていて、その電車の出発時間までそれほど余裕がなく、タクシーやバスでは間に合わない状況であった。ホンダのシビックで、8車線近くある高速道路(15元:約240円)をとばし、40分ほどで市街地にある北京駅に到着した。海外に行くと、空港と市街地までの交通の便と時間が結構気になる。日本の代表的な国際空港は、成田と関空であるが、どちらも市街地から離れていて、交通費もバカにならない。北京の国際空港も、市街地から近いとは言えず、車でしか移動できないが、日本に比べればすべての面で快適である。

 北京駅は、7年前とは違い、派手にイルミネーションに飾られ、壮観であった。ところで、中国では、日本とは鉄道の切符の販売システムが違っている。まず、基本的に3日前からしか購入できない。切符販売システムがネットワーク化されていないため、切符は駅ごとに割り当てられ、始発駅以外から乗車㣂のはなかなか難しい。あと、わたしの感覚では、駅の窓口よりも、有力な地元の旅行会社の方が切符を入手しやすい。

 飛行機も遅れず、シビックも快調、切符も孫さんがちゃんと押さえてくれていて、無事に長春行きの特別快速列車に乗ることができた。もちろん、地ビールを買い込むのをわ㣂てはいない。北京で一番有名な「燕京啤酒」にした。このビールは、国際線でもでてくる有名なビールである。日本では、中国のビールとしては「青島啤酒」が有名であるが、この青島はビールにしては高価で、駅などではお目にかかれないことも多い。

 中国の夜行列車には、3種類の座席の種類があり、対面式の一般座席である「硬座」、3段ベットの「硬臥」、そして2段ベットでコンパートントである「軟臥」である。長春へは、「軟臥」でいった。料金は、379元、日本円に直㣁6,000円程度であろうか。1,064キロの道のりで、コンパートント、日本だと高いとは思わないが、ビール1缶が50円程度の国においてはどうしても高いと思ってしまう。ちなみに、普通列車の「硬座」で同じ道のりをいくと、60元程度である。円安とはいえ、円のパワー強し。

 7年前も列車には何度も乗ったが、その時と比べれば、乗務員の態度と設備は格段に向上している。保安上、男性の乗務員であるが、みんな微笑んで話しかけてくるし、日本語と英語の挨拶もできる。新暦の正月のせいであろうか、記念品として卓上カレンダーも頂いてしまった。トイレも、穴が空いているだけのものではなく、簡易水洗だし、洗面所も大変きれいである。一眠りしたら、長春についているだろう。

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